2026年9月、柴田善臣騎手が現役を引退することが伝えられた。
競馬学校の第1期生として1985年にデビューし、気がつけば騎手生活は40年を超えていた。
華やかなG1勝利も、人気薄を導いた驚きも、けがから帰ってきた日の拍手も知っている。
そして、60歳を迎えてもなお、柴田善臣という名前は当たり前のように出馬表の中にあった。
だからこそ、その名前が「引退」という言葉と並んだ光景には、簡単には慣れることができない。
JRA通算22,311戦2,341勝、JRA重賞96勝、JRA・G1通算9勝。
数字を並べるだけでも、その歩みの大きさは伝わってくる。
しかし、柴田善臣騎手が競馬に残したものは、勝利数だけでは語りきれない。
一頭の馬を信じて待った時間、後輩たちを支えた年月、何度けがをしても馬上へ戻ろうとした思い。
その足跡をたどりながら、私たちが見てきた「ヨシトミ先生」の騎手人生を振り返りたい。
柴田善臣騎手が引退、60歳で終えた40年の騎手人生
柴田善臣騎手は1966年7月30日、青森県に生まれた。
2026年には60歳を迎え、JRA所属騎手として史上初の還暦ジョッキーとなっている。
引退時の主な記録を、あらためて整理しておこう。
| 生年月日 | 1966年7月30日 |
|---|---|
| 出身地 | 青森県 |
| 騎手デビュー | 1985年3月9日 |
| JRA通算成績 | 22,311戦2,341勝 |
| JRA重賞勝利 | 96勝 |
| JRA・G1勝利 | 9勝 |
| 主な表彰 | 黄綬褒章、2022年度JRA賞特別賞 |
2024年12月からは左肩腱板断裂の手術によって長期休養を余儀なくされたが、2025年9月に実戦へ戻った。
復帰後も勝利を重ね、2026年1月31日にはリッツパーティーで自身の持つJRA史上最年長勝利記録を59歳6か月2日に更新した。
しかし、同年4月12日の福島競馬で騎乗したあとに右肩の痛みを訴え、検査の結果、右肩の腱板断裂と損傷が判明する。
反対側の肩を治して戻ってきた矢先に、今度は右肩を傷めたことになる。
復帰を目指して治療とリハビリを続けていたなかで届けられた引退の知らせだった。
最後の騎乗となったのは、2026年4月12日の福島民報杯で騎乗したピースワンデュック。
あの日、誰もそれが柴田善臣騎手の最後になるとは思っていなかっただろう。
突然訪れた区切りだからこそ、もう一度見たかったという気持ちが残る。
競馬学校第1期生として始まった柴田善臣騎手の歩み
柴田善臣騎手は、JRA競馬学校騎手課程の第1期生である。
同期には、のちに調教師となった石橋守、須貝尚介、岩戸孝樹らがいた。
美浦の中野隆良厩舎から1985年3月9日にデビューし、中山競馬場でイズミサンエイに騎乗して5着。
同じイズミサンエイと臨んだ4月7日の中山競馬で、騎手としての初勝利を挙げた。
初年度は12勝を記録し、民放競馬記者クラブ賞の新人騎手賞を受賞している。
最初の重賞タイトルは、デビュー4年目となる1988年の中山牝馬ステークスだった。
斤量50kgでソウシンホウジュに騎乗し、重賞初制覇を飾った。
後年の落ち着いた姿から柴田善臣騎手を知った人には、若い頃から順風満帆だったように映るかもしれない。
けれど、初めてJRA・G1を勝つまでには、デビューから8年の時間が必要だった。
その時間を一気に特別なものへ変えた馬が、ヤマニンゼファーである。
ヤマニンゼファーとつかんだ初G1と秋の盾
1993年の安田記念で、柴田善臣騎手はヤマニンゼファーの手綱を取った。
ヤマニンゼファーは前年の安田記念を制していたが、そのときの鞍上は田中勝春騎手だった。
連覇を目指す一戦で新たに託された柴田善臣騎手は、好位から抜け出し、イクノディクタスの追撃を退ける。
デビュー9年目にして、初めてG1のゴールを先頭で駆け抜けた。
そして秋、二人は芝2,000mの天皇賞(秋)へ向かう。
マイルで結果を残してきたヤマニンゼファーにとって、距離への不安がささやかれた一戦だった。
直線でセキテイリュウオーと並び、ゴールまで続いた競り合いをハナ差で制する。
安田記念の連覇と天皇賞(秋)制覇は、柴田善臣騎手が一流騎手として広く認められる大きな転機となった。
勝った瞬間だけを見れば、すべてが鮮やかに決まったように思える。
それでも、距離を越えようとした馬と、その力を信じて運んだ騎手の間には、ゴールまでの200mよりもずっと長い時間があったはずだ。
柴田善臣騎手の長い物語に最初のG1という光を灯したのは、風を意味する名を持つヤマニンゼファーだった。
勝利と悲しみが重なった1998年の天皇賞(秋)
1996年には、タイキフォーチュンで第1回NHKマイルカップを制覇した。
東京芝1,600mを1分32秒6で駆け抜け、新たに始まったG1の最初の勝者として歴史に名を残している。
その2年後、柴田善臣騎手はオフサイドトラップと天皇賞(秋)を勝った。
脚元の不安に苦しみながら競走生活を続けてきた7歳馬が、直線で抜け出してつかんだG1だった。
ただし、このレースはサイレンススズカが故障を発症した一戦としても記憶されている。
競馬場を包んだ悲しみがあまりにも大きく、勝者を祝う声だけでは終われない秋の日になった。
それでも、度重なる故障を乗り越えたオフサイドトラップと、長くその背中を知っていた柴田善臣騎手が走り切った事実も、同じレースの中にある。
競馬には、喜びだけでも悲しみだけでも語れない瞬間がある。
柴田善臣騎手の勝利を振り返るとき、あの日の複雑な記憶から目をそらすことはできない。
キングヘイローに届けた、待ち続けたG1タイトル
柴田善臣騎手とのコンビで、多くの競馬ファンが思い浮かべる一頭がキングヘイローだろう。
良血馬として大きな期待を集めながら、クラシックでは皐月賞2着、日本ダービー14着、菊花賞5着。
古馬になってからは東京新聞杯と中山記念を勝ったものの、G1には何度挑んでも手が届かなかった。
距離を短くして臨んだ2000年の高松宮記念でも、単勝4番人気だった。
後方で流れを見ながら直線へ向き、大外から一気に追い込む。
ゴール前でディヴァインライトをとらえ、キングヘイローは11度目のG1挑戦でようやく頂点に立った。
「勝てなかった名馬」になるかもしれなかったキングヘイローに、柴田善臣騎手はG1馬という肩書きを届けた。
若い頃から注目され、負けるたびに期待が重くなっていった馬だった。
その馬が5歳の春、新しい距離と新しい競馬で初めてつかんだ大舞台の勝利。
柴田善臣騎手の冷静な騎乗が、長く待ち続けた物語の最後に置かれたことを覚えておきたい。
人気に関係なく勝機を見つけたベテランの技
2000年代に入っても、柴田善臣騎手は第一線を走り続けた。
2002年から2004年まで3年連続で関東リーディングジョッキーとなり、勝利数と安定感の両方で美浦を代表する存在になる。
2006年にはオレハマッテルゼで高松宮記念を制覇。
翌2007年のヴィクトリアマイルでは、単勝12番人気のコイウタをG1勝利へ導いた。
さらに強烈な印象を残したのが、2010年の宝塚記念である。
相棒のナカヤマフェスタは8番人気。
ブエナビスタをはじめとする実績馬がそろうなか、好位から力強く抜け出し、春のグランプリを制した。
ナカヤマフェスタはその秋、凱旋門賞で2着に入る。
世界の頂点まであとわずかに迫る馬の強さを、その数か月前に大舞台で引き出していたことになる。
そして2014年の安田記念では、世界ランキングの頂点に立っていたジャスタウェイの代打騎乗を任された。
不良馬場で何度も脚を取られながら、ゴール前でグランプリボスをハナ差とらえる。
48歳を目前にしたベテランが、初騎乗の世界的名馬を勝利へ導いた。
長く乗ってきたから安全に回ってくるのではない。
勝つ可能性がある限り、最後の一完歩まで馬と一緒に前へ出る。
その姿勢があったからこそ、人気薄でも、急な依頼でも、柴田善臣騎手の手綱から大きな勝利が生まれた。
最年長記録よりも先にあった「馬に乗ることが好き」という思い
年齢を重ねるにつれ、柴田善臣騎手の騎乗には一つの記録がついて回るようになった。
JRA史上最年長勝利である。
2022年11月5日、56歳3か月7日でビルカールを勝利へ導き、岡部幸雄元騎手が保持していた記録を更新した。
それから勝つたびに、自分自身の記録を何度も塗り替えていく。
2021年のレパードステークスではメイショウムラクモで優勝し、JRA史上最年長重賞勝利記録も打ち立てた。
ただ、本人にとって年齢は、騎乗を続ける理由そのものではなかったのだろう。
競馬が好きで、馬に乗ることが好きだった。
勝てば厩舎の人たちが喜んでくれるから、任された馬で結果を出したかった。
記録を作るために乗り続けたのではなく、乗り続けた先に誰も届かなかった記録が生まれた。
2026年1月の勝利によって、デビューした1985年から42年連続でJRA勝利を記録した。
若手時代、全盛期、ベテランと呼ばれた時代、その先にある還暦まで、一度も勝利の灯を絶やさなかったことになる。
騎手会長と「相談役」、勝利数だけでは測れない功績
柴田善臣騎手は、レースの外でも長く競馬界を支えてきた。
2005年に日本騎手クラブの会長へ就任し、2010年まで務めている。
会長を武豊騎手へ引き継いだあとは相談役となり、後輩たちから頼られる存在であり続けた。
競馬ファンの間で親しまれた「相談役」という呼び名は、役職から生まれたものだった。
長い騎手人生を送りながら、フェアプレー賞を11回受賞していることも忘れられない。
勝つことだけでなく、安全に競馬を成立させ、馬とほかの騎手を守りながら走る。
それを何十年も続けた先に、2022年春の黄綬褒章があった。
中央競馬の発展と畜産業の振興に尽くした功績が認められ、JRAの現役騎手として初めて受章している。
同年度にはJRA賞特別賞も贈られた。
一人の騎手が残せる功績は、勝ったレースの数だけではない。
後輩が安心して乗れる環境を考え、競馬という仕事の価値を社会へ伝え、ベテランになっても美しい騎乗フォームを保つ。
柴田善臣騎手が長く現役でいたこと自体が、あとに続く騎手たちへ示した一つの道だった。
柴田善臣騎手が競馬場に残したもの
柴田善臣騎手のJRA・G1勝利は、1993年のヤマニンゼファーから2014年のジャスタウェイまで、21年にわたって記録された。
その間にはタイキフォーチュン、オフサイドトラップ、キングヘイロー、オレハマッテルゼ、コイウタ、ナカヤマフェスタがいる。
短距離馬も中距離馬も、人気馬も伏兵も、将来を期待された若い馬も、長い時間をかけて頂点へたどり着いた馬もいた。
交流G1ではサウスヴィグラスとのJBCスプリント、カフェオリンポスとのジャパンダートダービーも制している。
一頭の代表馬だけで語れないことが、柴田善臣騎手の40年の厚みなのだと思う。
出馬表にその名があれば、年齢を見て驚き、パドックでは変わらない姿勢を探し、人気薄なら少し気になった。
若い騎手が増えても、競馬場にはいつも柴田善臣騎手がいるような気がしていた。
その当たり前が終わることを、私たちは引退の知らせによって初めて知る。
けがから復帰し、還暦を迎えたあと、もう一度だけでも馬上の姿を見たかった。
そんな思いは残る。
けれど、40年以上にわたって私たちが見せてもらった時間は、最後の一鞍が増えなかったことで小さくなるものではない。
2,341の勝利よりも多くのレースで、柴田善臣騎手は馬を無事にゴールへ導いてきた。
ヤマニンゼファーと競り合った秋の東京も、キングヘイローが大外から届いた春の中京も、ナカヤマフェスタが抜け出した初夏の阪神も、これから先も映像の中に残り続ける。
そして、その映像を見返すたびに、馬の背中で静かに勝機を待つ人の姿を見つけるだろう。
長い間、本当にお疲れさまでした。
柴田善臣騎手がターフに刻んだ40年と、その先に続いていく競馬の時間へ、心からの敬意を送りたい。

