2026年10月2日、ウインカーネリアンの現役引退が発表された。
9歳まで走り続け、最後のレースとなったのは9月27日のスプリンターズステークスだった。
着順は6着。
連覇には届かなかったが、勝ち馬との差は0秒4しかなかった。
長く走った馬の引退と聞けば、少しずつ競走能力が衰え、静かにターフを去る姿を思い浮かべることもある。
けれど、ウインカーネリアンの最後は、そうではなかった。
9歳になってもG1で上位を争い、重い斤量を背負って重賞の馬券圏内に入り、最後まで若い馬たちと競り合っていた。
振り返れば、この馬の歩みはいつも、もう一度立ち上がることの繰り返しだった。
クラシックで味わった大敗も、命に関わる病も、海外で届かなかったゴールも越えてきた。
そして8歳の秋、長い時間をともにした三浦皇成騎手と、ようやくG1の先頭でゴールした。
ウインカーネリアンの競走生活は、遅かったからこそ、忘れがたい物語になったのだと思う。
コントレイルを追った、3歳春

ウインカーネリアンは2017年4月16日、北海道新冠町のコスモヴューファームで生まれた。
父はスクリーンヒーロー、母はコスモクリスタル、母の父はマイネルラヴ。
栗毛の馬体には、父譲りの力強さと、母系から受け継いだスピードが同居していた。
初めて競馬場へ姿を見せたのは、2019年6月の東京芝1,800mだった。
新馬戦はワーケアの2着に敗れたものの、続く福島の未勝利戦で初勝利を挙げる。
そのとき手綱を取っていたのが、三浦皇成騎手だった。
3歳春には、弥生賞ディープインパクト記念を経て皐月賞へ向かった。
単勝360倍の17番人気という低評価を覆し、好位からしぶとく粘ってコントレイルの4着に入った。
勝利からは遠い4着だったとしても、世代の頂点を争う舞台で、この馬の名前を覚えた人は多かっただろう。
続く日本ダービーは、大外18番枠から積極的に運びながら17着に敗れた。
同世代の主役が無敗の二冠を成し遂げる一方で、ウインカーネリアンは条件クラスへ戻ることになった。
あの春だけを見れば、クラシックで一度だけ輝いた伏兵だったのかもしれない。
しかし、本当に強いウインカーネリアンが現れるのは、そこから何年もあとのことだった。
蹄葉炎が止めた時間

3歳秋に茨城新聞杯を勝つと、4歳初戦の若潮ステークスで2着に入り、続く幕張ステークスを制してオープンクラスへ上がった。
ようやく重賞へ手が届きそうになった矢先、試練が訪れる。
2021年4月のダービー卿チャレンジトロフィーを右前肢のハ行で出走取消となり、その後の検査で蹄葉炎を発症していることが分かった。
蹄葉炎は、競走復帰どころか、馬の命を脅かすこともある病である。
走れるのかではなく、無事に生きられるのか。
そんな心配が先に立つ時間が続いた。
約1年の休養を経て、ウインカーネリアンは2022年3月の六甲ステークスでターフへ戻ってきた。
復帰戦は6着だった。
それでも、再び競馬場に立ち、ゲートを出て、最後まで走り切った。
その事実だけでも、当時は十分に大きな意味があったはずだ。
ところが、ここからウインカーネリアンは、無事に復帰しただけでは終わらなかった。
次走の谷川岳ステークスを勝ち、米子ステークスも制覇する。
さらに関屋記念では好位から抜け出し、3連勝で重賞初制覇を成し遂げた。
5歳夏の新潟で手にしたタイトルは、病を乗り越えた馬へのご褒美ではない。
もう一度鍛え直し、競走馬として本当に強くなったからこそ届いた勝利だった。
三浦皇成騎手と進んだ、世界への道

2023年の東京新聞杯では、好スタートから先頭に立ち、そのまま直線へ向かった。
後ろから迫ってきたのは、のちにマイルチャンピオンシップを連覇するナミュールだった。
最後はアタマ差。
ウインカーネリアンは東京の長い直線を逃げ切り、重賞2勝目を挙げた。
皐月賞で穴をあけた頃には中距離を走っていた馬が、6歳になって一流のマイラーへ変わっていた。
その歩みのそばには、いつも三浦騎手がいた。
2歳時の初勝利も、オープンクラスへ上がった幕張ステークスも、復帰後の3連勝も、東京新聞杯も同じ鞍上だった。
人馬は国内だけにとどまらず、海外にも挑戦した。
2023年にはドバイのゴドルフィンマイルで6着に入り、秋には米国のブリーダーズカップマイルへ遠征した。
結果だけを見れば、海外で勝利を挙げることはできなかった。
それでも、長期休養から戻った馬が海を渡り、世界の強豪と同じゲートへ入っている。
その姿には、勝敗だけでは測れないたくましさがあった。
7歳となった2024年には、東京新聞杯で2着、高松宮記念で4着、京阪杯で2着に入った。
マイルだけでなく、芝1,200mでも一線級と戦えることを示し、競走生活は新たな方向へ進み始める。
年齢を重ねたことで可能性が狭まるのではなく、むしろ新しい適性が見つかっていった。
それもまた、ウインカーネリアンという馬の面白さだった。
ドバイで見えた、G1までの距離

8歳となった2025年、初戦のシルクロードステークスでは59キロを背負って3着に入った。
次に向かったのは、ドバイのアルクオーツスプリントだった。
直線芝1,200mの舞台で先手を奪い、三浦騎手とともにゴールを目指す。
残りわずかなところまで先頭を守ったが、最後はビリービングに差されて2着となった。
海外G1のタイトルには届かなかった。
けれど、その走りによって、G1は夢ではなくなった。
蹄葉炎から復帰しただけでも奇跡のように見えた馬が、8歳の春、世界のスプリントG1で優勝を争っている。
競走馬の時間を、人間の物差しだけで決めてはいけないのだと教えられるような一戦だった。
帰国後のキーンランドカップは1番人気に支持されたものの5着に敗れた。
次走のスプリンターズステークスでは評価を落とし、16頭立ての11番人気となる。
しかも、引いた枠は大外の16番だった。
条件がそろったとは言いにくい。
それでも三浦騎手は迷わず前へ行き、逃げたジューンブレアの直後で流れに乗った。
8歳の秋、二つの悲願が重なった

2025年9月28日、中山競馬場。
最後の直線で、ウインカーネリアンはジューンブレアに並びかけた。
内には武豊騎手。
外には三浦皇成騎手。
若い頃から何度も先頭へ立ちながら、G1だけは遠かった人馬が、秋の中山で一つのゴールを目指していた。
着差はアタマ。
1分6秒9で先頭を守り、ウインカーネリアンは8歳にしてG1初制覇を果たした。
三浦騎手にとっては、127回目の挑戦でつかんだJRA・G1初勝利だった。
どちらか一方だけの物語ではない。
馬は蹄葉炎から戻り、騎手は長く届かなかったタイトルを追い続けてきた。
諦めずに走ってきた二つの時間が、同じゴール板の前で重なったからこそ、あの勝利は多くの人の心を動かしたのだろう。
三浦騎手とのコンビで挙げた最初の勝利から、6年以上が過ぎていた。
2歳未勝利戦を勝った栗毛の若駒と、G1の表彰台に立った8歳馬は、もちろん同じ馬である。
しかし、その間には、勝利も大敗も、長い休養も、海を越えた挑戦もあった。
競馬には、結果が出るまで待つことでしか出会えない景色がある。
ウインカーネリアンと三浦騎手は、そのことを一つの勝利で見せてくれた。
9歳になっても、衰えなかった闘志

G1馬となった翌年も、ウインカーネリアンは現役を続けた。
2026年の高松宮記念では7番人気ながら好位で運び、サトノレーヴ、レッドモンレーヴに続く3着に入った。
勝ち時計はレースレコードの1分6秒3。
ウインカーネリアン自身も1分6秒6で走り、4歳馬パンジャタワーの追撃をしのいだ。
9歳だから健闘したのではない。
年齢に関係なく、G1で勝ち負けを意識させるだけの力が残っていた。
夏のキーンランドカップでも59キロを背負って3着に入り、連覇を懸けてスプリンターズステークスへ向かう。
最後の一戦は、稍重の中山芝1,200mだった。
好位から粘り込み、結果は6着。
勝利には届かなかったが、若いスプリンターたちに交じって、最後まで大きく崩れなかった。
通算37戦9勝。
重賞3勝の数字以上に、どの時代の姿を思い出すかによって、印象が変わる馬だった。
皐月賞で17番人気の評価を覆した3歳馬。
蹄葉炎から戻り、3連勝で重賞を勝った5歳馬。
世界のG1で逃げ粘った8歳馬。
そして、9歳でもスプリントG1の上位を争った古豪。
一頭の競走馬の中に、いくつもの物語があった。
赤い宝石が残す、次の物語

引退後は、北海道新冠町のビッグレッドファームで種牡馬となる。
鹿戸雄一調教師は、健康な状態で競走生活を終えられたことへの安堵とともに、生命力が強く、いつも若々しかった長所を産駒へ伝えてほしいと願っている。
父スクリーンヒーローも、現役時代に鹿戸厩舎でジャパンカップを制した馬だった。
その父の産駒を預かり、病から立て直し、今度は種牡馬として送り出す。
調教師にとっても、ウインカーネリアンと過ごした時間は、いくつもの世代をつなぐものになったのだろう。
カーネリアンは、赤や橙色に輝く宝石の名前である。
燃えるような栗毛で先頭を走り、長い年月をかけて価値を増していったこの馬には、よく似合う名前だった。
もう、競馬場のゲートに入る姿を見ることはできない。
それでも、数年後には、その生命力や前向きなスピードを受け継いだ仔がターフへ現れる。
早くから活躍する馬もいれば、父と同じように時間をかけて強くなる馬もいるはずだ。
すぐに結果が出なくても、待ってみたいと思う。
ウインカーネリアンが、競馬は待つことで物語が深くなると教えてくれたからだ。
命の危機を越え、8歳でつかんだG1。
9歳まで燃え続けた赤い宝石の物語は、これからその子どもたちへ受け継がれていく。

