突然ですが、皆さんは下記のレースに共通点があることをご存じでしょうか?
- 根岸ステークス
- 目黒記念
- 鳴尾記念
- 関屋記念
これらのレース名にはある共通点があります。実は、すべてかつて日本に存在していた競馬場の名称にちなんでレース名が名付けられているのです。
現在の中央競馬のレース名には、かつての競馬場をしのばせるものがいくつもあります。
そこで、本記事ではそれぞれのレース名の由来となった旧競馬場とレースの概要について紹介します。
根岸ステークス
レース名 | 根岸ステークス |
グレード | G3 |
創設 | 1987年 |
開催競馬場 | 東京競馬場 |
コース | ダート1,400m |
出走条件 | 4歳以上 |
負担重量 | 別定 |
1着賞金(2025年時点) | 4,000万円 |
根岸ステークスは1月下旬もしくは2月上旬に開催されるダートの短距離重賞です。
レース名の【根岸】とは神奈川県横浜市にある地名で、かつて存在していた根岸競馬場に由来しています。
根岸競馬場の歴史と役割
根岸競馬場は1866年(慶応2年)開設された日本初となる洋式競馬場です。
幕末好きの人にとって慶応といったら戊辰戦争や大政奉還など、日本史の転換となったイベントがたくさんありますが、動乱の最中、根岸競馬場は開設されました。
当初の根岸競馬場は慰留外国人が主催し、専ら外国人向けにレースが行われていましたが、のちに日本人にも親しまれ、近代競馬の発展に大きな影響を与えました。
中でも、現在の天皇賞の前身である「エンペラーズカップ」や「パリミュチュエル方式の馬券発売」など、現在の競馬の下地はこのころから出来上がっていたのです。
根岸競馬場はのちに横濱競馬場に名前を変え、しばらく運営されましたが、1941年に太平洋戦争が開戦すると、横濱競馬場は立地が軍港に近いことから海軍省に接収され、競馬開催が中止します。
終戦後はアメリカ軍に接収され、1969年の返還まで実に20年以上経ちました。
歳月を経たことで競馬場としての使用が不可能となり、跡地は森林公園として整備され、現在に至ります。
なお、2025年現在も根岸競馬場の一部は現存しており、当時の面影を残しています。
根岸ステークスの概要
根岸ステークスは2月に開催されるフェブラリーステークスの前哨戦として位置づけられているレースです。
フェブラリーステークスを目標にする馬がステップとして選択するケースもあれば、中央競馬では希少な短距離ダート重賞なので、ここで結果を残して賞金加算を狙うケースもあり、さまざまな意図を以て各馬が参戦しているのです。
なお、舞台となる東京競馬のダートコースは、全国の競馬場のなかで一番最後の直線が長いことで知られています。
そのため、差しや追い込み馬の台頭が有利な展開になりやすく、ダートコースにしては後続の馬が台頭しやすい傾向があります。
目黒記念
レース名 | 目黒記念 |
グレード | G2 |
創設 | 1932年 |
開催競馬場 | 東京競馬場 |
コース | 芝2,500m |
出走条件 | 4歳以上 |
負担重量 | ハンデ |
1着賞金(2025年時点) | 5,700万円 |
目黒記念は5月下旬に東京競馬場で開催されるハンデの中距離重賞です。
レース名の【目黒】とは東京都目黒区にかつてあった目黒競馬場から取られています。
目黒競馬場の歴史と役割
目黒競馬場は1907年(明治40年)に開設された競馬場で、現在の東京都目黒区下目黒4~6丁目に位置していました。
右回りで1周1マイル(1,600m)のコースを持ち、当時としては珍しい芝レースも設けられていました。
開設当初は馬券発売が禁止されることもあり、その期間は閑散としていたようですが、1914年に馬券が再発売すると、徐々に客足が増え、多くの日本人が競馬の魅力を知るようになります。
特に重要な転換期となったのが、日本ダービーの前身である「東京優駿大競走」が開催されたことでしょう。
このレースをきっかけに競馬の人気に火が付き、ますます多くの競馬ファンが足を運ぶようになりました。
しかし、目黒競馬場は東京都心に位置していたため、拡張が難しいという問題を抱えていたのです。
競馬人気の高まりとともに、より規模の大きな競馬場が求められるようになり、1933年に現在の府中市にある東京競馬場に移転が決まります。これにより、目黒記念は約30年の歴史に幕を閉じました。
なお、現在目黒記念があった場所は住宅地となっていますが、当時の名残を感じられる場所があります。
その一つが道路の一部に残るカーブです。このカーブはかつての目黒競馬場のコーナーの名残であり、現在も地域住民の生活道路として利用されています。
舗装されているものの、競馬場があった歴史を静かに物語っていますよ。
目黒記念の概要
目黒記念は5月の下旬に開催されるG2競走です。
最大の特徴は、日本ダービーと同日に開催され、なおかつ日本ダービーの後に開催される最終レースとして設定されている点でしょう。
ダービーデーの最終レースに目黒記念を導入している理由はいくつかありますが、かつて目黒競馬場で日本ダービーの前身である東京優駿大競走が開催されたことを考えると感慨深いものがあります。
もっとも、現実的にはダービーの混雑緩和を目的としており、ダービーと目黒記念に開催時刻を調整することで、ダービーを見に来た人と、最終レースまで楽しみたい来場者の分散を図っています。
なお、レース内容としては非根幹距離の中距離ハンデ重賞ということで、重賞馬や重賞でくすぶっている馬、クラス戦上がりの馬が一挙に集い、混戦模様になりがちです。
日本ダービーよりも荒れやすいことから、穴党の中にはダービーよりも目黒記念に力を入れている人もいます。
また、ダービーデーの最終競走に指定されていることから、一部の競馬ファンには【裏ダービー】という呼ばれ方もされています。
鳴尾記念
レース名 | 鳴尾記念 |
グレード | G3 |
創設 | 1951年 |
開催競馬場 | 阪神競馬場 |
コース | 芝1,800m |
出走条件 | 3歳以上 |
負担重量 | 別定 |
1着賞金(2025年時点) | 4,300万円 |
鳴尾記念は阪神競馬場で開催される芝の中距離重賞です。
レース名の【鳴尾】とは、戦前にあった鳴尾競馬場が由来となっています。
鳴尾競馬場の歴史と役割
鳴尾競馬場は兵庫県武庫郡鳴尾村、現在の西宮市にあった競馬場で、創設は1907年です。
一つ上の見出しで紹介した目黒競馬場と同じ年に開設され、芝コースを採用した競馬場は東西間の競馬ブームに大きな影響を及ぼしました。
ただし、1908年から1923年まで続いた馬券発売禁止時代は運営や資金繰りが厳しかったようで、競馬以外の様々な催事でなんとか運営を維持していたようです。
中でも、競馬場内に陸上競技場や野球場、テニスコートやプールが設けられた鳴尾運動場は全国中等学校優勝野球大会の会場として使用されました。
全国中等学校優勝野球大会は現在の甲子園です。開催の最中、会場が手狭になったことで現在もある阪神甲子園球場が開場されたため、間接的に鳴尾競馬場は甲子園にも影響を及ぼしています。
馬券発売禁止法が解除されてからは関西圏の中心的な競馬場として確立され、人気が高まりました。
しかしながら、競馬人気とともに現在の会場が手狭になったことで、より広大な競馬場が求められるようになります。
同じ時期に太平洋戦争の影響で用地として海軍に徴用されたことなどがきっかけとなり、現在の阪神競馬場がある宝塚市の移転が決まりました。
鳴尾競馬場は1943年に閉場となり、現在は住宅地や商業施設が立ち並んでいますが、この地にある武庫川女子大学付属中・高校の敷地内にある芸術館はかつて鳴尾競馬場のスタンドです。
現在は別の用途としてスタンドが使用されているのは感慨深いですね。
鳴尾記念の概要
鳴尾記念は開催時期が頻繁に変わることで知られる重賞レースです。
2024年までは6月上旬に行われていましたが、2025年は14年ぶりに12月開催となり、同時に14年前同様芝1,800mに距離短縮しています。
1ハロン短くなっただけですが、阪神競馬場の芝1,800mはワンターンの外回りコースを使用するのに対し、芝2,000mはツーターンの内回りコースを使うため、距離以上に適性が変わります。
具体的には芝1,800mのほうが最後の直線距離が長くなるため、決め手が問われやすく、差しや追い込み馬にチャンスがありますよ。
データ予想派の方は、これまでの鳴尾記念とは求められる傾向が異なることを念頭に入れておくことが大切です。
過去の鳴尾記念のデータだけではなく、コース変更を踏まえた予想が重要となるでしょう。
関屋記念
レース名 | 関屋記念 |
グレード | G3 |
創設 | 1966年 |
開催競馬場 | 新潟競馬場 |
コース | 芝1,600m(外) |
出走条件 | 3歳以上 |
負担重量 | ハンデ |
1着賞金(2025年時点) | 4,100万円 |
関屋記念は新潟競馬場で開催される芝のマイル重賞です。
レース名の【関屋】とはかつてあった関屋競馬場に由来しています。
関屋競馬場の歴史と役割
新潟競馬場の前身である関屋競馬場は新潟市内の関屋地区にありました。
都市部で盛り上がっていた競馬の需要の高まりを受けて開設され、1908年に第一回新潟競馬が関屋の地で開催されています。
県民の娯楽施設として長く愛され、太平洋戦争の最中には陸軍軍医学校の施設として提供されたようですが、戦後は新潟県が国から競馬場を借りて競馬を開催していました。
ところが1960年に入ると、新潟市内で地盤沈下による浸水被害が目立つようになります。
そこで、1965年に国の指揮のもと、治水対策として信濃川の分水路事業が行われることが決まると、工事の対象となった地に住んでいた人は移転を余儀なくされます。
その結果、移転先として白羽の矢が立ったのが関屋競馬場だったのです。
関屋競馬場が住宅地になることが決定すると、競馬が廃止となり、翌1965年には移転地として新潟市北区笹山の地に新たな競馬場が設立されました。
この競馬場こそが現在の新潟競馬場なのです。
分水路の工事事業のために廃止となった関屋競馬場ですが、現在も多くの住民がかつて競馬場があった地で生活されていますよ。
なお、関屋競馬場の名残は2025年現在、店の名前や踏切、石碑でわずかに見かけるものの、ほとんど残っていないようです。
関屋記念の概要
関屋記念はサマーマイルシリーズに指定されているレースとして一定の地位を確立している競走です。
その大きな要因としては、夏競馬の重賞レースにしては珍しく負担重量が別定だったので、実績のある馬も参戦傾向にあったのです。
ところが、2025年からは43年ぶりにハンデ競走となったので一筋縄ではいかなくなる可能性があります。
同時に開催時期も2024年までは8月上~中旬開催でしたが2025年は7月下旬になりました。
従来よりも2~3週間前倒しになったことで、開幕週の新潟開催開催となったのです。
新潟の芝コースはもともと時計が出やすいことで有名でしたが、開幕週開催となったため、より時計は出るでしょう。
スピードに長けた馬を狙うのが良いかもしれません。
旧競馬場の名前が付けられたレースのまとめ
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かつて日本各地に存在した競馬場の名を冠したレースが、現在も競馬の歴史と伝統を受け継いでいます。
レース名を通して日本競馬の歴史を今も伝えているのはJRAならではの粋な計らいといえるでしょう。
各レースを通じてかつて存在した競馬場の記憶を後世に残したいです。