2025年9月9日未明、日本競馬史に特別な足跡を残した名馬・ハルウララが静かに息を引き取りました。
千葉県御宿町のマーサファームで、スタッフの方々に見守られながらの最期だったと伝えられています。
原因は「疝痛(せんつう)」という馬にとって命に関わる消化不良の症状でした。
SNSでは「ありがとう」「お疲れさま」「ずっと忘れないよ」という言葉があふれています。
それほどまでに、ハルウララは多くの人の心を動かしてきた存在でした。
ここでは、彼女の歩みを改めて振り返りながら、なぜこれほどまでに人々に愛され続けたのかを考えてみたいと思います。
ハルウララとは?
ハルウララは1996年2月27日、高知県の牧場で生まれました。
父はニッポーテイオー、母はヒロインという血統。決して華やかな良血ではありませんでしたが、鹿毛のかわいらしい姿と健気な走りでファンを魅了しました。
所属は高知競馬。地方競馬の中でも経営難が続いていた時期で、競走馬の数も限られ、決して恵まれた環境ではありませんでした。そんな中で彼女はデビューを果たします。
しかし結果はなかなか出ません。デビューから何戦走っても勝つことができず、いつしか「負け続ける馬」として知られるようになっていきました。
それでも、ハルウララは一度も走ることを投げ出すことなく、懸命にゴールを目指しました。
生涯成績は113戦0勝。けれどその「負け続ける姿」が、人々の心を逆に掴むことになります。
社会現象となった理由
2003年から2004年にかけて、ハルウララは全国的なブームとなりました。
きっかけのひとつが、あの武豊騎手が騎乗したことです。
日本を代表するトップジョッキーが「負け馬」に乗るというニュースは瞬く間に話題となり、テレビや新聞が連日取り上げました。
「勝てないけどがんばる馬」に国民的スター騎手が寄り添う姿は、どこか心温まる光景として記憶されています。
この頃、ハルウララの単勝馬券は「当たらないけれど応援馬券」として大人気に。
「がんばれハルウララ」と書かれた馬券を記念に買う人が続出し、グッズや書籍、さらには映画化までされるほどの熱狂が生まれました。
なぜここまで愛されたのでしょうか?
それは、当時の日本社会が不況やリストラなど厳しい時代を迎えていたことと無関係ではありません。
「何度負けても諦めずに挑戦する」姿は、多くの人にとって自分自身を重ねられる存在だったのです。
高知競馬を救った存在
ハルウララの活躍は、単なる話題づくりでは終わりませんでした。
実は高知競馬は長年赤字が続き、廃止論がたびたび浮上するほど経営が苦しい状況にありました。
しかしハルウララ人気によって観客数や売上が急増。
応援馬券やグッズ販売、そして観光客の増加によって、競馬場の収益は一時的に大幅に回復しました。
「一度も勝っていない馬」が地方競馬を救う――これは世界的に見ても非常に珍しい事例です。
ハルウララは単なる人気馬ではなく、高知競馬、ひいては地方競馬の存続を支えた救世主でもあったのです。
引退後の紆余曲折
2006年に正式に競走馬登録を抹消し、引退。
その後の歩みは決して平坦なものではありませんでした。
一時はセラピー馬として人々の心を癒やす活動に参加しましたが、支援団体が解散。
その後は繁殖牝馬として北海道に渡る計画が立てられるも、血統的な条件や体調の問題もあり、結局実現することはありませんでした。
さらに、預託料が支払われなくなり、行き場を失いかけるという危機も。
このとき全国のファンが支援を呼びかけ、「春うららの会」が設立され、彼女の生活が守られることになります。
「どうしても守りたい」――そんな人々の想いが、ハルウララの第二の馬生をつなぎとめたのです。
晩年のハルウララ
2012年以降は千葉県御宿町のマーサファームに移され、そこで余生を送りました。
最初は気性が荒く、人を寄せ付けない面もありましたが、年月を重ねるうちに少しずつ穏やかさを取り戻しました。
やがてファンと触れ合ったり、スタッフに甘えたりする姿も見られるようになりました。
2018年には木更津警察署の交通安全ポスターに起用され、署長から感謝状とニンジンを贈られるという温かい出来事もありました。
また近年では、ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』への登場によって若い世代のファンが急増。
英語版のリリースにより海外からも注目され、クラウド支援が届くまでになっていました。
亡くなる直前まで、多くの人々の愛情に包まれて過ごせたことは、とても幸せな晩年だったといえるでしょう。
ハルウララが残したもの
ハルウララの物語は、単なる競走馬の一生を超えて、私たちに多くの学びを与えてくれました。
彼女の存在はまず、経営難に苦しんでいた高知競馬を救ったという事実に表れています。
観客や売上を呼び込み、地方競馬に再び光を当てたその功績は、どんな名馬にも劣らない大きな意味を持ちました。
また、勝利を得られなくても懸命に走り続ける姿は「負けても諦めない」という象徴となり、人々に勇気を与えました。
成績は0勝に終わったものの、その歩みは多くの人の心を支え、不況の時代を生きる人々に希望を届けました。
さらに、引退後もファンや支援者の輪に守られ続けたことで、人と馬との強い絆を示した存在でもあります。
誰かが支えれば生きる道が開けるという事実を体現し、その姿は「つながりの大切さ」を教えてくれました。
このように、ハルウララは競馬の結果だけでは測れない価値を残してくれたのです。
ハルウララのまとめ
ハルウララは「勝てない馬」として語られることが多い存在でした。
しかし本当の姿は、負け続けても決して諦めず、多くの人に希望を届けた「勝者」だったのではないでしょうか。
高知競馬を救い、人々を励まし、晩年は支援の輪に包まれながら穏やかに暮らしたハルウララ。
その生涯は競馬を超え、日本の社会全体に強いメッセージを残しました。
これからも、ハルウララは私たちの記憶の中で走り続けるはずです。
ハルウララ、本当にありがとう。どうか安らかに眠ってください。