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安田記念の由来となった人物とは?“日本競馬の父”安田伊左衛門の功績に迫る

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安田記念といえば、春の東京開催を締めくくるマイル王決定戦。

でもこのレース、実は「安田伊左衛門(やすだ いざえもん)」という人物の名前に由来しているのをご存じでしょうか?

「誰それ?」と思った方もいるかもしれません。

しかし、彼の存在なくして今の中央競馬は語れません。馬券を買って楽しむ日常も、この人がいなければ実現していなかったかもしれないのです。

この記事では、「日本競馬の父」とも呼ばれる安田伊左衛門の波乱万丈な人生と、その偉大すぎる功績をわかりやすく紹介します。

目次

安田伊左衛門とは何者?

安田伊左衛門とは何者?の見出し

日本の中央競馬において、「安田記念」の名前の由来になっている人物が、安田伊左衛門(やすだ いざえもん)です。

彼は明治時代から昭和にかけて活躍した軍人・政治家・競馬行政の改革者であり、「日本競馬の父」とまで称される存在。

今、私たちが当たり前のように中央競馬を楽しみ、馬券を購入できるのは、彼が残した数々の功績があってこそです。

最初に、安田伊左衛門が何者なのか、解説します。

軍人から競馬界へ

1872年に岐阜県で生まれた安田伊左衛門は、東京帝国大学農科大学を卒業後、陸軍に入隊し、騎兵第3連隊に所属しました。

軍馬の重要性が高まっていた時代背景の中、安田は馬術に秀でた軍人として将校クラスに昇進。

その後も、軍馬育成や馬匹改良に強い関心を持ち続け、国内の馬産業や馬事文化を軍事戦略と結びつける形で政策提言を行っていきます。

この軍人としての経験と馬への理解が、のちに彼が競馬界で大きな影響力を持つ土台となりました。

競馬との関わりの始まり

1906年、安田伊左衛門は東京競馬会の理事に就任し、ここから競馬界での本格的な活動が始まります。

さらに、1910年には東京競馬倶楽部、1921年には帝国競馬協会の設立にも関わり、それぞれで要職を歴任。

単なる運営者としてではなく、レース体系の整備や馬券制度の合法化にも深く関与しました。

軍馬の改良と馬産業の発展を両立させるという視点から、競馬を国策レベルの事業に押し上げた先駆者といえるでしょう。

安田伊左衛門の功績①競馬法の成立

安田伊左衛門の功績①競馬法の成立の見出し

現在では当たり前のように行われている馬券の購入ですが、実はかつて違法とされ、競馬そのものが存続の危機に立たされた時代がありました。

その中で、安田伊左衛門は競馬の意義を再定義し、法整備に奔走し、結果として合法的な馬券発売の再開と、今日の公営競馬制度の礎を築きました。

ここからは、競馬法の設立における解説をします。

馬券禁止の危機と奔走

1908年、政府は賭博的要素が強すぎるという理由で、馬券の発売を全面的に禁止する決定を下します。

この影響で多くの競馬倶楽部が壊滅し、国内競馬は一時期暗黒期に突入しました。

しかし、当時すでに競馬界の重鎮となっていた安田伊左衛門は、これに強く反発します。

競馬が単なる賭け事ではなく、軍馬の育成や改良に寄与する国策的意義があると主張し、政府や軍部との交渉を重ねながら、競馬の社会的正当性を訴え続けました。

結果として、彼の努力は法改正という形で実を結ぶことになります。

競馬法の成立と合法化

安田の尽力もあり、1923年に旧競馬法が成立しました。

同年7月1日から施行され、条件付きながら馬券の発売が再び合法化されました。

これにより、競馬は国家公認のもとで開催されるようになり、公営競技としての第一歩を踏み出します。

この法整備は単なる博打の復活ではなく、軍馬改良という国家的課題に資するものとして理解されていたのです。

競馬は再び息を吹き返し、安田伊左衛門の先見性と政治的手腕が、日本競馬の存続を支えた象徴的な出来事となりました。

安田伊左衛門の功績②クラシック五大競走の導入

安田伊左衛門の功績②クラシック五大競走の導入の見出し

日本競馬が現在のような体系的なレース構造を持つようになった背景には、安田伊左衛門によるクラシック競走の導入があります。

海外の競馬文化を積極的に取り入れ、若駒たちの頂点を決めるための重賞体系を整備したのです。

これにより、競馬は単なるギャンブルではなく、育成とロマンが融合したスポーツとしての価値を高めることに成功しました。

ここからは、安田伊左衛門が果たしたクラシックレースの導入について解説します。

イギリス式をモデルにしたレース体系

安田伊左衛門は、近代競馬の本場・イギリスのクラシックレースを手本に、日本独自のクラシック体系の整備に着手しました。

牡馬路線では皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三冠競走、牝馬路線では桜花賞とオークスを設定し、いわゆるクラシック五大競走を確立。

これらは若駒たちにとっての頂点であり、競馬ファンにとってはドラマやロマンが詰まった重要な舞台です。

この体系の導入によって、日本競馬はより深みのある競技として成長していきました。

日本ダービーの生みの親

現在も競馬の祭典として親しまれている日本ダービー(東京優駿)を創設したのも、安田伊左衛門の功績のひとつです。

イギリスのダービーステークスに倣い、3歳牡馬の頂点を決めるレースとして1932年に東京競馬倶楽部が日本ダービーの前身である東京優駿大競走を開催しました。

この日本ダービーの誕生により、競馬は一部の愛好家だけでなく、広く国民的なイベントへと発展したのです。

安田はこの舞台の意義を「馬主、調教師、騎手、そして馬の夢の集大成」と語り、競馬のステータス向上にも貢献しました。

安田伊左衛門の功績③JRA設立と中央競馬の誕生

安田伊左衛門の功績③JRA設立と中央競馬の誕生の見出し

太平洋戦争後、日本競馬は一時的に国営という特殊な形で再出発しましたが、さまざまな課題を抱えていました。

そんな中、安田伊左衛門は再び改革の旗手として立ち上がります。

彼の尽力によって新たな競馬制度が整備され、現在の中央競馬、すなわちJRAの基盤が築かれていきました。

ここでは、混乱期を乗り越え、JRA設立に至るまでの流れと安田氏の最後の大きな功績を紹介します。

日本競馬会の解散と国営化

戦後、旧日本競馬会はGHQ(連合国軍総司令部)の政策により、私的独占とみなされて1948年に解散を余儀なくされます。

これにより、日本の競馬は一時的に国営化され、農林省の管轄下で開催されることになりました。

しかし、国が直接運営する競馬には、運営の硬直化や自由度の低下といった課題が噴出します。

国民の間でも「競馬は公的機関が直接管理すべきか」という議論が起こり、競馬の未来は再び大きな岐路に立たされていました。

1954年、日本中央競馬会(JRA)が誕生

競馬制度を見直す動きの中で設置された競馬制度審議委員会の答申を受け、1954年に日本中央競馬会法が国会で可決・成立。

この法律に基づき、9月10日に日本中央競馬会(JRA)が正式に発足し、安田伊左衛門が初代理事長に任命されました。

同年9月25日には、東京・京都競馬場で中央競馬の新たな幕開けとなるレースが華々しく開催され、国民的娯楽としての競馬が本格的に復活。

JRAの設立は、まさに安田氏の集大成ともいえる功績であり、その名は今なお競馬界に深く刻まれています。

安田伊左衛門のまとめ

安田伊左衛門のまとめの見出し

安田伊左衛門は、日本競馬の制度そのものを築いた立役者です。

馬券制度の合法化、クラシック競走の整備、そしてJRAの設立――いずれも彼の存在がなければ実現しなかったでしょう。

私たちが毎週のように馬券を買い、熱いレースに一喜一憂できるのは、安田氏が競馬に価値を見出し、未来に託したからこそです。

「安田記念」というレース名には、そんな偉人への感謝と敬意が込められています。

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