競馬において「予後不良」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
予後不良とは、レース中や調教中に馬が重篤な故障を負った際、治療が困難であると判断された場合に下される診断を指します。
馬にとっても、人にとっても非常に重い決断であり、時に競馬ファンに大きな悲しみをもたらします。
この記事では、「予後不良」とは何か、その意味や経緯、競馬界で特に印象深い名馬たちの例を挙げながら、わかりやすく解説していきます。
「なぜ予後不良は起こるのか」「予後不良になった馬はどうなるのか」といった素朴な疑問にも触れていきますので、ぜひ最後までご覧ください。
競馬の予後不良とは?

競馬において「予後不良」とは、競走馬が重度の故障を負った際、治療や回復の見込みが極めて低いと判断された場合に下される診断です。
予後不良と診断された馬は、苦痛から解放するために安楽死の措置がとられることが一般的です。
脚の骨折や靱帯断裂など、馬にとっては命に直結するケガが原因となるケースが多く、特に脚を負傷した場合は、回復までの長期安静が困難であるため、致命傷となることが少なくありません。
予後不良は、馬の命を尊重し、過度な苦痛を避けるためのやむを得ない措置であり、競馬界全体にとっても非常に重い決断となります。
安楽死の方法
馬に対する安楽死は、獣医師が責任をもって執り行います。
主な方法は、静脈注射による薬物投与であり、鎮静剤や致死薬を使用して、馬を苦痛なく安らかに眠らせる処置が取られます。
手順は以下の通りです。
- 麻酔薬の投与:まず、馬を苦痛から解放するために、静脈内に麻酔薬を投与して意識を失わせます。
- 致死薬の投与:意識を失った後、致死薬を静脈内に投与して心肺機能を停止させます。
- 死亡の確認:心拍や呼吸の停止を確認し、死亡を確認します。
- 馬体の処理:死亡後、馬体は適切に処理されます。
獣医師と関係者は、馬に対して最大限の敬意を払いながら手続きを進めます。
予後不良になった馬はどうなる?
予後不良と診断され安楽死処置を受けた馬は、基本的に競馬場内やトレーニングセンター内で静かに見送られます。
その後は、専門の業者により、法律に基づいた方法で遺体の処理が行われます。具体的には火葬されたのち、馬頭観音に供養されます。
また、多くの競馬場や牧場では、亡くなった馬たちを追悼するために「鎮魂碑」や「慰霊祭」が設けられており、ファンや関係者が手を合わせて感謝と哀悼の意を表す機会も設けられています。
馬の死は競馬に携わるすべての人々にとって重い出来事であり、その尊い命を無駄にしないためにも、関係者は日々安全な競馬運営に努めています。
競馬の予後不良はなぜ起こる?

競走馬における予後不良は、いくつかの要因が重なって発生します。
馬という動物の身体的特性に加え、競馬というスポーツの特性が深く関係しています。
まず、馬は非常に繊細な脚の構造を持つ動物です。
速く走るために進化した一方で、細く長い四肢には大きな負荷がかかっており、特に高いスピードを維持しながら走る競走馬では、わずかなバランスの崩れでも重大な故障につながりかねません。
さらに、以下のような要因も予後不良のリスクを高めるとされています。
- 高速レースによる脚部への過大な負担
- 急激な加速・減速による負荷
- 馬場状態の影響
- 体質や遺伝的要素
- 過密ローテーションや無理な仕上げ
このように、馬自身の特性と、競技特有の環境・状況が複合的に絡み合うことで、予後不良という悲しい結果に至るケースがあるのです。
だからこそ、現代の競馬界では、馬の健康管理や馬場整備、レース施行ルールの見直しなど、さまざまなリスク軽減の取り組みが続けられています。
予後不良となった有名G1馬5頭

ここでは、予後不良となった名馬たちの中から、特に多くの競馬ファンに強い印象を残したG1馬5頭を紹介します。
どの馬も輝かしい成績を残しながら、突然の悲劇に見舞われました。
それぞれの馬の生涯と、予後不良に至った経緯を振り返ります。
テンポイント
生年月日 | 1973年4月19日 |
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性別 | 牡 |
父 | コントライト |
母 | ワカクモ |
母父 | カバーラップ二世 |
生産牧場 | 吉田牧場 |
戦績 | 18戦11勝 |
主な勝ち鞍 | 天皇賞(春) 1977年 有馬記念 1977年 |
獲得賞金 | 3億2,841万5,400円 |
「流星の貴公子」と呼ばれたテンポイントは、1977年の天皇賞(春)と有馬記念を制覇した名馬です。
しかし翌1978年の日経新春杯では今では考えられないような66.5キロの酷斤量を背負った影響もあり、第4コーナー辺りでに左後肢を骨折し、競走中止となりました。
回復の見込みがないことから、予後不良が診断されましたが、全国の競馬ファンからの助命の声に応えるべく、手術を行いました。
手術はいったん成功したと思われましたが、大きな馬体を残りの3本の脚で支えきれないことや、蹄機作用の停止に伴い、蹄葉炎を発症し、最後は自然死しました。
テンポイントの闘病はその後の競馬界に大きな影響を及ぼしました。
具体的には、競走馬を苦しませずに速やかに安楽死を行う措置や、過度なハンデキャップの見直しなどが挙げられます。

ライスシャワー

生年月日 | 1989年3月5日 |
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性別 | 牡 |
父 | リアルシャダイ |
母 | ライラックポイント |
母父 | マルゼンスキー |
生産牧場 | ユートピア牧場 |
戦績 | 25戦6勝 |
主な勝ち鞍 | 菊花賞(G1) 1992年 天皇賞(春)(G1) 1993・1995年 日経賞(G2) 1993年 |
獲得賞金 | 7億2,949万7,200円 |
ライスシャワーは重厚なスタミナを武器に菊花賞や天皇賞(春)を連覇しました。
関東馬ですが、京都競馬場における戦績が際立っており、ステイヤーとして風靡しました。同時に、ミホノブルボンやメジロマックイーンといった最強馬に勝利したことから、【黒の刺客】という異名も取られています。
しかし、京都競馬場で代替開催された1995年の宝塚記念でレース中に転倒し、粉砕骨折を発症したため、ターフで安楽死の措置が取られました。
ライスシャワーの活躍は後世にまで語り継がれ、現在も京都競馬場にライスシャワーの碑が設けられています。
ホクトベガ

生年月日 | 1990年3月26日 |
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性別 | 牝 |
父 | ナグルスキー |
母 | タケノファルコン |
母父 | フィリップオブスペイン |
生産牧場 | 酒井牧場 |
戦績 | 42戦16勝 |
主な勝ち鞍 | エリザベス女王杯(G1) 1993年 フェブラリーステークス(G2) 1996年 フラワーカップ(G3) 1993年 札幌記念(G3) 1994年 エンプレス杯 1995~1996年 川崎記念 1996~1997年 ダイオライト記念 1996年 群馬記念 1996年 帝王賞 1996年 マイルチャンピオンシップ南部杯 1996年 浦和記念 1996年 |
獲得賞金 | 8億8,812万6,000円 |
1990年生まれのホクトベガはもともと芝で活躍していた馬でしたが、地方交流重賞が解放されてからはダートで大車輪の活躍を見せ、いつしか、「砂の女王」と呼ばれるほどになりました。
しかし、1997年、引退レースと決めていたドバイワールドカップの最終コーナーで転倒し、さらに他馬に巻きこまれたことで複雑骨折してしまいます。
その後、現地ドバイで安楽死氏の措置を受けましたが、検疫の関係で遺体は日本に運ぶことができず、たてがみのみ遺髪として酒井牧場に納められています。
異国の地で命を落とすことになった悲劇は、国内外のファンに大きな衝撃を与えました。
サイレンススズカ

生年月日 | 1994年5月1日 |
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性別 | 牡 |
父 | サンデーサイレンス |
母 | ワキア |
母父 | Miswaki |
生産牧場 | 稲原牧場 |
戦績 | 16戦9勝 |
主な勝ち鞍 | 宝塚記念(G1) 1998年 中山記念(G2) 1998年 金鯱賞(G2) 1998年 毎日王冠(G2) 1998年 小倉大賞典(G3) 1998年 |
獲得賞金 | 4億5,906万7,000円 |
逃げ馬の代名詞的な存在として今なお名馬として多くの競馬ファンに認知されているサイレンススズカは、圧倒的なスピードで単騎逃げで数多くの名馬相手に勝利を重ねました。
特に金鯱賞の一人旅や毎日王冠でエルコンドルパサーやグラスワンダーを下したレースは伝説です。
しかし、1998年の天皇賞(秋)では圧倒的な1番人気でいつものようにハイペースの大逃げを仕掛けましたが、3コーナーでペースダウンし、左前脚を骨折を発症しました。
回復の見込みがないことから予後不良と診断され、安楽死の処置がとられています。
リバティアイランド

生年月日 | 2020年2月2日 |
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性別 | 牝 |
父 | ドゥラメンテ |
母 | ヤンキーローズ |
母父 | All Amerivan |
生産牧場 | ノーザンファーム |
戦績 | 11戦5勝 |
主な勝ち鞍 | 桜花賞(G1) 2023年 オークス(G1) 2023年 秋華賞(G1) 2023年 阪神JF(G1) 2022年 |
獲得賞金 | 9億8,919万9,200円 |
リバティアイランドは新馬戦で上がり3ハロン31秒4という異次元の末脚で勝利したことで一躍有名となりました。
その後、阪神JFや牝馬三冠競走も勝利し、史上7頭目となる無敗の三冠牝馬となりました。
ところが、古馬になってからはかつてほどのパフォーマンスを残せず、2025年に挑んだ香港のクイーンエリザベス2世カップでは向こう正面から早めに仕掛けたものの、直線で歩様が乱れて外ラチに寄れてしまいます。
診断の結果、左前脚の種子骨靱帯の内側と外側を断裂し、予後不良の診断を受けて安楽死処置が施されました。
三冠馬(三冠牝馬)がレース中に命を落とすのは2025年時点で初めてのことであり、日本中に大きな悲しみと衝撃が広がりました。

予後不良のまとめ

競馬における「予後不良」は、競走馬、関係者、そしてファンにとって非常に重く、避けがたい現実です。
馬たちは命を懸けて走っており、その尊い命を守るために多くの努力が払われていますが、それでも時に避けられない悲劇が起こります。
今回ご紹介したG1馬だけでなく、競馬の歴史の中では数多くの馬たちが予後不良となり、惜しまれながらターフを去っていきました。
しかしながら、これらの名馬たちは、競馬界に数えきれないほどの感動と興奮をもたらし、そしてその存在は今なお多くのファンの心に生き続けています。
予後不良という問題を知ることは、競馬の華やかな一面だけでなく、スポーツとしての厳しさ、そして馬という生き物への深い敬意を持つきっかけとなるでしょう。
命を懸けて走る馬たちに感謝しながら、これからも競馬という文化を大切に見つめ続けていきたいものです。