日本競馬界に多大な影響をもたらした種牡馬としてのイメージが強すぎるサンデーサイレンスに対し、我々日本の競馬ファンは、競走馬時代の印象を薄く感じていないでしょうか。
確かにサンデーサイレンスの現役時代を知る方は少ないかも知れません。それは、サンデーサイレンスがアメリカの競走馬であり、サンデーサイレンスが活躍していた1980年代後半は今と違って衛星中継などなかった時代だから情報は皆無に等しいのも当然です。
そこで今回は、サンデーサイレンスの現役時代について紹介したいと思います。
種牡馬としてのサンデーサイレンスの活躍はいうまでもありませんが、意外と現役時代にアメリカでどのような功績を残したのか知らない方は多いのではないでしょうか。
当記事を通して【奇跡の馬】サンデーサイレンスの凄さを知ってください。
サンデーサイレンスは冴えない馬体だった
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サンデーサイレンスの父ヘイローは、1983年と1989年にアメリカのリーディングサイアーに輝いた名種牡馬であり、母のウェッシングウェルは、現役時代、G1勝利はなかったものの重賞を2勝。通算成績38戦12勝で繁殖入りしました。
そんな両親の元、1986年3月25日、アメリカのケンタッキー州レキシントンにあるストーンファームにて、生を受けたサンデーサイレンスは、幼少期から関係者の評価が非常に悪かったといいます。
それは、後肢の飛節が両後肢にくっつきそうになるくらい内側に曲がっていたからです。
また、見た目も貧弱で全体的にバランスが悪い冴えない馬体に対して、生産者のハンコック氏は「足がひょろ長くて、上体は華奢だった。」と述べ、他の関係者からも「目にするのも不愉快」との酷評を受けました。
その影響もあってセレクトセールへは出品すら許されませんでした。
一般部門に出品されたサンデーサイレンスは1万ドルの買い値がついたものの、生産者のハンコック氏が安すぎると判断し、1万7,000ドルで買い戻ししています。
デビュー前から評判の悪かったサンデーサイレンスでしたが、この3年後にアメリカの年度代表馬になるなど、この時いったい誰が想像したでしょうか。
結局、サンデーサイレンスはハンコック氏が経営するストーンファームの所有馬となりました。
サンデーサイレンスを襲った2度の事故
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冴えない馬体と酷評を受けたサンデーサイレンスでしたが、不運はそれだけではありません。
サンデーサイレンスは幼少期に2度も生死を彷徨うような大きな事故に遭っています。
1つ目は、生後8ヶ月経った頃、ウイルス性腸疾患を患いました。これに対し、サンデーサイレンスは酷い下痢に悩まされ、生死を彷徨う危険な状態となります。しかし、23リットルもの点滴を朝晩打ち続けたことで何とか回復しました。
そして、2つ目は、馬運車の転倒事故です。
これは、サンデーサイレンスがセールに出品された際、買い手が付かず買い戻しとなった帰りの道中で起きました。
運転手が突如心臓疾患を起こして、馬運車が暴走し、そのまま横転してしまったのです。
馬運車を運転していた運転手、そしてサンデーサイレンス以外に乗っていた数頭の馬もすべて死亡しましたが、サンデーサイレンスだけは重傷を負いながらも助かったのです。
しかも、競走能力を失うほどでもなかったので、その後、獣医師の賢明な治療により、2週間ほどで2度目の復活を果たしました。
このように生死を彷徨う出来事を2度も経験したサンデーサイレンス。この強靭な生命力が、のちの競走馬としての強さにつながったかも知れません。
サンデーサイレンスのライバル イージーゴア
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酷評を受け、2度の大きなトラブルを経験したサンデーサイレンスは、結果的に生産者のハンコック氏の所有馬として、1988年にデビューしました。
デビュー戦こそ、2着に敗れますが、次走で初勝利を挙げると、一般競走でも2着に健闘し、2歳シーズンを終えます。
翌年3歳となった初戦の一般競走とサンフェリペステークスを難なく勝利すると、続くサンタアニタダービー(米G1)では、2着馬に11馬身差を付けての圧勝劇をみせ、6戦目にしてG1馬となりました。
そして、目指すは、”もっとも偉大な2分間”と呼ばれるケンタッキーダービー(米G1)です。ここで、サンデーサイレンスは、生涯のライバルとなるイージーゴアと初顔合わせとなります。
イージーゴアはアリダー産駒で近親や兄弟にも活躍馬がいる良血馬で、デビュー前から多くの関係者が大注目していました。
血統から注目度まですべてがサンデーサイレンスと真逆の環境にあったイージーゴアは、デビュー戦こそ2着に敗れますが、そこから未勝利、一般戦と連勝。4戦目となったカウディンステークスと5戦目のシャンペンステークス(ともに米G1)とG1を連勝しました。
ともに早い段階でG1馬となった終生のライバル。周囲の期待に応えたイージーゴアと下馬評を覆したサンデーサイレンスが、ケンタッキーダービーで初対戦することは、多くの関係者が大注目することになります。
そして、レースでは、最後のの直線で先頭に立ったサンデーサイレンスは、右に左にと真っすぐに走れない幼さをみせながらも1番人気のイージーゴアの猛追を許さず、1馬身半差で勝利し、見事ケンタッキーダービーを制しました。
デビュー前から散々な酷評を受けたサンデーサイレンスは、これで誰もが認める真のG1馬となったことで、汚名返上を果たしたといえるでしょう。
逆に2着と敗れたイージーゴアは、次走のプリーネスステークス(米G1)でサンデーサイレンスにリベンジとしてレースに挑みますが、ここでもサンデーサイレンスに屈してしまいます。
これでアメリカ二冠馬となったサンデーサイレンス。もちろん、目指すはアファームド以来となる11年ぶりの三冠馬です。
ところが、三冠目となるベルモントステークス(米G1)では、イージーゴアに8馬身差を付けられ、三冠の夢は破れてしまいました。
しかし、イージーゴアとの4回目の対戦となったBCクラシック(米G1)では、イージーゴアの追い上げをクビ差で凌ぎ切り勝利。
こうして、サンデーサイレンスは、見事この年のアメリカ年度代表馬に選出されました。ただ、BCクラシックの直後、サンデーサイレンスは膝の剥離骨折を発症したため、約半年間の休養に入ることとなります。
その後、予定通り翌年6月に復帰を果たしたサンデーサイレンス。いよいよイージーゴアとの再戦が期待された中、今度はイージーゴアが故障してしまい、そのまま引退となりました。
よって、ライバルイージーゴアとの対戦は4戦3勝でサンデーサイレンスに軍配が上がったまま、幕を閉じたのです。
サンデーサイレンスの成績
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イージーゴアとの5回目の対決は叶いませんでしたが、サンデーサイレンスは現役を続行。6月に開催されたカリフォルニアンステークス(米G1)が復帰初戦となりました。
ここでもサンデーサイレンスは、逃げる競馬をみせると、そのまま押し切り見事、G1通算6勝目を飾りました。
その後、中2週で挑んだハリウッドゴールドカップ(米G1)では、重斤量を背負わされながら、最後はクリミナルタイプに競り負け2着惜敗、次走にリベンジを誓う形となります。
ところが、ここでサンデーサイレンスに悲劇が訪れます。それは、馬の体重を支えるのに不可欠といわれる靭帯断裂が見つかるのです。
結局、レースに出走することが困難と判断され、サンデーサイレンスは現役を引退することとなります。なお、生涯戦績は14戦9勝2着5回と連対率はパーフェクトでした。
こうして、生まれた時から酷評を受け続けたサンデーサイレンスは、誰もが認めるスーパーホースとしてアメリカ競馬の一時代を築いたのです。
種牡馬として来日したサンデーサイレンス
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アメリカ競馬でも近年稀に見る戦績を残したサンデーサイレンス。引退後は、巨大なシンジケートが組まれるかと思われました。
ところが、サンデーサイレンスは種牡馬としての評価がなかったのです。それは、ヘイロー産駒の種牡馬がアメリカで活躍していなかったからです。
たとえ、競走馬として結果を残していても血統背景に活躍馬がいなければ、当時のアメリカの競馬界では評価されませんでした。
一流の名馬が種牡馬としては三流以下…そんなサンデーサイレンスに目を付けたのが社台ファームの総帥・吉田善哉氏でした。
こうして、サンデーサイレンスは、日本に輸入されることになったのです。
なお、吉田善哉氏がサンデーサイレンスを導入した背景には、いくつかの要因が複雑に絡み合っていたと考えられます。
まず、社台ファームで管理していた種牡馬ディクタスの急逝は、その後継者を探す必要性に迫られました。ディクタスは優秀な種牡馬であり、その後継種牡馬の不在は、社台ファームにとって大きな痛手でした。
また、社台ファームが所有していたノーザンテーストやリアルシャダイなどの産駒が活躍したことで、血縁が近い馬ばかりになりました。これは、血統の多様性を失い、近親交配による弊害が生じる可能性を高めるものでした。吉田善哉氏は、この状況を打破するために、新たな血統を導入する必要性を感じていたのです。
種牡馬としての道が絶たれかけたサンデーサイレンスがアジアの極東にある日本から声がかかったことに、関係者は驚きを隠せませんでしたが、吉田氏とハンコック氏が親交があったため、話が進み、売却が決まります。
その後、サンデーサイレンスは日本どころか世界中で大活躍する産駒を多く輩出したのは、皆さんがご存知の通りです。
現役時代のサンデーサイレンス まとめ
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今回は、サンデーサイレンスの現役時代を中心に紹介しました。
デビュー前から散々な評価を下されながらも通算成績14戦9勝と素晴らしい活躍を遂げたサンデーサイレンス。
さらに種牡馬としても酷評を受けたことで日本に輸入され、多くの名馬を輩出しました。競走馬としても、種牡馬としても汚名返上を果たした世界的名馬であることは間違いありません。
そして、その偉大な血は、ディープインパクト、ステイゴールド、ハーツクライを始めとする多くの後継種牡馬に受け継がれ、現在ではサンデーサイレンスの孫にあたる馬も種牡馬として活躍をみせています。
こうして、日本競馬の血統史を大きく塗り替えたサンデーサイレンスの血は、今後も長きに渡り、受け継がれていくことになるでしょう。日本の競馬レベルを世界にまで押し上げてくれたサンデーサイレンスには、感謝しかありませんね。
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